地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

日本住血吸虫の発見ー三神三郎の貢献

 地方病教育推進研究会事務局です。(第65回)

 日本住血吸虫の発見は、明治37年(1904)とされています。それまで医師三神三郎は、自身の研究で新種と思われる虫卵を発見しています。その原虫は一体何のか。当時佐賀県広島県でも同様な虫卵が発見されていましたので、これらの地域は同一の寄生虫であると研究者の間では主張されていました。しかし、まだその原虫は未発見でした。

写真(出典−地方病とのたたかい山梨地方病撲滅協力会1977)

 ここで桂田富士郎の登場です。岡山医学専門学校(現岡山大学医学部)教授の桂田は、三神三郎家に滞在し、三神家の飼い猫である雌猫「姫」の解剖を行います。その様子は、小林照幸著『死の貝』に詳しく描かれています。

 明治37年4月6日から桂田は、三神家に5日間滞在しています。その間、多くの地方病患者を診ています。そして姫の解剖となります。三神の研究室の解剖から取り出された臓器は、一旦岡山の自身の研究室に持ち帰リました。そして再び7月25日に三神家を訪れます。今回も三神は解剖用の猫を提供しています。そして桂田は今回は臓器を持ち帰らず、三神の研究室ですべて解剖しました。その結果門脈から32匹の成虫が発見されたのです。

 また肝臓内を調べてみると、これまでの地方病患者の肝臓、糞便から見た同じ無数の虫卵があったのです。大発見でした。

 このとき「桂田と三神は、痛くなるほど握手を交わし」(『死の貝』から)、地方病の原因がここに定まったのです。

 8月初旬、桂田は住血吸虫の新種として、学名を「Schistosoma japonicum 」、和名を「日本住血吸虫」と命名しました。そして8月13日付明治政府発行の官報に掲載され、ドイツ語に翻訳されドイツにも報告されました。また、広島と佐賀、福岡の地方病も同じく日本住血吸虫症であることが突き止められました。

 

 三神三郎は医師として日々眼の前にいる地方病患者に対して治療をしつつ研究を続けていました。それは、地方病で苦しむ患者を一刻も早く助けたいとの熱い思いがあったからです。山梨県人として誇りです。

 

 地方病教育推進研究会

 事務局長