地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

三神三朗の生い立ちを追って

 地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第71回)

 大型連休の最中、皆様いかがお過ごしでしょうか。昨日も中央道上野原インターチェンジ付近での下り線では、渋滞45キロとニュースで言っていました。山梨県に住む筆者にとって美しい緑に囲まれてここに住む喜びをこの時期かみしめています。

 

 表題にあるよう三神三朗についてその生い立ちに迫るため、彼の出身である山梨県笛吹市石和町広瀬地区に住む方々に話を聞きました。いずれも彼の実家である川手家について詳しいことはわからないとのことでした。ただ彼の父親である川手五郎右衛門の墓が広瀬区の共同墓地にあるとのことで見に行きました。

 

 周囲を果樹畑で囲まれた共同墓地には、川手姓のお墓がいくつかありました。その中で川手五郎右衛門の名前が刻まれている墓石がありました。年配の方の話だと洪水でこのあたり一帯が流され、菩提寺も墓も流されたとのことで、今の共同土墓地は水害の後移設されたそうです。それがいつなのか明確にはわからないそうです。今後郷土歴史に詳しい人を探し調べていきたいと思っています。

 明治40年(1907)の大水害は笛吹地域を大きく変えた「大水害」でした。地元の方が語る大水害はこのときの水害だと思われます。『笛吹市風水害誌 笛吹市風水害誌編集委員会編 2007』によると

 

 甲府気象台の記録から大雨は8月22日から26日まで1週間にわたり、総雨量327,1ミリ、また1日で132,2ミリ、石和では降り始めから480ミリに達するなど山梨県下のほとんどの河川が氾濫し、また全面浸水の被害となった。

 なかでも東八代郡下(現在の笛吹市)の被害は甚大を極め、とりわけ笛吹川が氾濫した石和ではその被害は大きかった。(同P17)

 写真(出展:『笛吹市風水害誌  笛吹市風水害誌編集委員会編 2007』

 かつての笛吹川は、ほぼ現在の平等川あたりを流れ、以前の鵜飼川が現在の笛吹川本流になった。このことが同書で分かったことの一つです。

 

 調査研究が多岐にわたり地方病研究の奥深さを痛感する日々です。

 

 地方病教育推進研究会

 事務局長