地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

杉浦健造先生について第2回

地方病教育推進研究会事務局です。

杉浦健造先生についての説明の続きを書きます。前回ブログの続編です。

杉浦先生は、中巨摩田之岡村(現在の南アルプス市)の小沢鹿十郎医師とともにこの病の病状を明らかにしました。地方病研究の先駆的な役割を果たしました。

1904(明治37)年、中巨摩郡大鎌田村(現在の甲府市大里町)の三神三郎医師と、岡山医学専門学校の教授、桂田富士郎先生が、病院の原因が新種の寄生虫にあることを発見し実証しました。この寄生虫は、「日本住血吸虫」と命名されました。その後、日本住血吸虫は皮膚から侵入するということがわかりました。1913((大正2)年夏には、この寄生虫の中間宿主が後にミヤイリガイと呼ばれる巻貝であることを九州帝国大学教授、宮入慶之助先生が発見します。

日本住血吸虫の生活史が解明されると、健造先生は、中間宿主の宮入貝を撲滅することでこの病を根絶しようと宮入貝をエサにするアヒルやホタルの幼虫などを飼育して田んぼや池に放ち、天敵による駆除を試みました。こうした活動は、後の官民一体による宮入貝撲滅、地方病撲滅への活動に繋がりました。しかし、健造先生は、1933(昭和8)年、志半ばにして67年の生涯を終えました。

健造先生の地方病撲滅への想いは、杉浦醫院の跡継ぎである杉浦三郎先生へと引き継がれることになりました。

 

前回に引き続き、昭和町伝承館 杉浦醫院の資料及び山梨県ふれあい特集号vol.38を参考にまとめました。

     地方病教育推進研究会事務局長