地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

『断毒論』をめぐって

 

 地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第70号)

 大型連休に入り甲府盆地は連日暑い日が続いています。まだ4月なのに今日は30度越えの真夏日です。ラジオからは、熱中症に気を付けるようにとアナウンサーが呼びかけています。

 さて前回のブログで橋本伯寿の『断毒論』について紹介しました。しかし、橋本伯寿について調べているのですが、なかなか文献が見つかりません。

 先日「医の博物館 西巻明彦」の論考『橋本伯寿と種痘』が目に留まりましたので紹介します。この論考は、種痘をめぐる日本での歴史について論述しています。その中で橋本伯寿の『断毒論』に触れています。以下一部紹介します。写真は、『断毒論』の表紙です。本物です。

 『断毒論』は,橋本伯寿の著で文化11年の出版といわれている。橋本伯寿は、甲斐国市川大門(注ー現在の山梨県市川三郷町市川大門)の出身で、天明年間に長崎に遊学し、吉雄流外科を学び、その道中天然痘をさけるためには隔離が重要であることを主張した。この主張を、1772年、市川陣屋と甲府勤番支配役所へ提出している。『断毒論』は、『断毒論』、『翻訳断毒論」、『国字断毒論』の種類があり、『断毒論』は漢文で書かれている。『翻訳断毒論』、『国字断毒論』は、ほば同じ書物で、仮名混じり文で書かれており漢文で書かれている『断毒論』は医者むけ、『「医の博物館」、『国字断毒論』は庶民向けで、いかに橋本伯寿は庶民への啓蒙をはかろうとしたことがうかがえる。内容は,痘瘡(天然痘)、麻疹が伝染病であること、 万病万毒論、生気と毒気の混和の状態によって病がおきることを主張している。痘瘡をまぬがれるには、痘瘡の患者と接触しないことが重要であり、 種痘を批判し、痘瘡治療が無益であることを主張した。池田家は、予防法としての人痘接種、牛痘接種は終始反対したが池田霧渓と人痘法の二代目緒方春朔とは友好関係にあった。霧渓自身か二代目春朔に、初代春朔の自筆本の供覧を望んでいる。 反面,池田家は、橋本伯寿の『断毒論』のすべての版木を押収するという強行手段をとり、伯寿を断圧した。これは、漢文体の『断毒論』の中で痘瘡治療を否定したためと考えられる。

(※アンダーラインは事務局の筆者。『翻訳断毒論』の出版は、『地方病とのたたかい』2003  によると1811年 文化8年となっている)

 

 この論考は、おそらく「医の博物館」の館長である西巻明彦氏の機関誌の中の一部だと思われます。ちなみに「医の博物館」は、日本歯科大学新潟生命歯学部内にあります。(新潟市中央区浜浦町1‐8 8号館2階)

 この論考の中には、地方病症状の一つである腹腫張満に関する記載はありませんが、橋本伯寿を知る手立てになりそうです。これからも橋本の調査を続けます。また「医の博物館」へも訪問をしたいと思います。

 

 地方病教育推進研究会

 事務局長

                                                                  

地方病教育推進研究会設立1周年記念大会を開催します。(予告)

地方病教育推進研究会事務局です。(ブロ第69回)

地方病の教材化に取り組んでいた当時(1995年)、山梨県立衛生公害研究所のK先生に大変お世話になりました。

先日久しぶりに先生のお宅にお邪魔しました。その折に写真の橋本伯寿著『断毒論』の実物を見せて頂きました。古本屋で入手したとのことで大変貴重な本です。『断毒論』は、明確に地方病と特定できる最初の文献だと言われています。(『地方病とのたたかい2023 「山梨地方病撲滅協力会編」』P10 より)

次回ブログで『断毒論』についてもう少し紹介したいと思います。

 

さて、表題にあるように「地方病教育推進研究会設立1周年記念大会」を次の通り開催します。

今回は、現場の小学校の先生による教育実践報告と連続となります梶原元研究員の講演が主な内容です。以下開催チラシの一部を掲載します。ふるってご参加ください。

 

  ~地方病を次の世代に伝える~   地方病教育推進研究会設立1周年記念

大会を開催します☆

   参加者を募集しています。

  • 日時 2024年6月15日(土) 午後2時~3時45分
  • 場所 昭和町風土伝承館 杉浦醫院

  • 内容

 研修Ⅰ 教育実践報告

  「『地方病』を学ぶ子どもたち」

  甲府市立大里小学校教頭

   (前県教委指導主事) 雨宮康治

 研修Ⅱ 講演

  「地方病資料にみられる住民意識に    

  ついて」

  講師:元山梨県衛生公害研究所職員

            梶原徳昭

 討論(意見交換)

 申し込み及び問い合わせは、メールで下記事務局にお願いします。

  申し込み締切日6月1日

  事務局 Mail:       gqaaz89350@yahoo.co.jp

※資料代として一人200円を受付で頂きます。

 

 地方病教育推進研究会

 事務局長

地方病研究会を紹介するチラシ

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第68回)

新年度がスタートして3週間が過ぎましたが、読者の皆様いかがお過ごしですか。

 

庭に菜園を作っています。妻の花壇を改造したものですが楽しみな作業です。

写真の苗は、初夏から夏にかけて収穫できる野菜です。エンドウやアスパラは、少しですが今ほぼ毎日採れています。

過日の地元テレビ局による本研究会の活動を紹介する番組「今、伝え残したいこと

 ~地方病の歴史を未来へ~ 」が放送されたことはすでにお知らせしました。

放送後いろいろな場面で研究会に関しての問い合わせや紹介する機会が増えました。そのため、簡単な研究会の活動を説明するチラシの必要性を感じ、今回次のようなものを作成しました。(実際のパンフレットには写真を入れてあります)

 

 地方病教育推進研究会     

  こんな活動をしています

 山梨県にかつて流行した地方病は、1996年(平成8年)2月19日に流行終息宣言が出されました。徐々に地方病の歴史が風化しています。

地方病の歴史を残し、次の世代に伝えることを主な目的として地方病教育推進研究会を2023年(令和5年)5月27日に設立しました!!

 活動の中身は              〇子ども達への出張講座(出前授業)を行います。

  ※校種や学年は問いません。      〇地方病(日本住血吸虫症)に関する資料の収集や整理を行います。

 (体験者等へのインタビュー調査も行います)

感染症に関する研究者から知見を学ぶため研修を行います。(年2回程度)

  

  お気軽にお問い合わせください。                                

 

  問い合わせ先:事務局                                         Email  gqaaz89350@yahoo.co.jp ブログ tihoubyou23.hatenablog.

 

A4サイズのチラシです。多くの方に本研究会を知っていただくことを最大の目的に作りました。

 

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三神三朗の人柄

 地方病教育推進研究会事務局です。(第67回)

 4月に入り読者の皆様方におかれましては、新年度お忙しい毎日だと思います。昨日(4月5日)、甲府市の桜の満開も甲府気象台から発表がありました。4月の桜満開は、7年ぶりだそうです。笛吹市も満開なので早速写真を撮って来ました。場所は笛吹市役所前の土手です。右に流れる川は笛吹川です。

 さて前回に続いて三神三朗について記述します。

 三神三朗が笛吹市石和町広瀬の出身だということは、前回のブログで紹介しました。しかしその生い立ちの詳細は、わかっていません。今後地元の関係者に取材をしてまとめたいと思っています。

 三神三朗は東京・済生学舎卒業後、三神医院として地元で開業しました(既報)。その時の年齢は20代半ば。彼は、朝早くから深夜まで診療に明け暮れていたそうです。地方病への情熱は大きく、腹水除法は手際よく午前7時過ぎの診療開始を待って、陽が登る前から患者が門前に並んだそうです。

 また冬場に患者を待たせるのは可哀想だと、彼は患者が門の前に立った午前5時頃から診療を始めたそうです。宴席に招かれてもこのあと急患があるかもしれないと絶対に酒は受け付けなかったほどです。(以上小林照幸『死の貝』から参照)

 三神三朗の医師としての振る舞いや人柄がよく分かる箇所です。彼の志は現在もその後継者が引き継ぎ、甲府市大里町に整形外科・内科・呼吸器内科・脳神経外科医院として地域医療に従事されています。

 市井の医師三神三朗については繰り返しになりますが、生い立ちを含め調査研究を深めていきたいと思っています。

 

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三神三朗と地方病

 地方病教育推進研究会事務局です。第66回

 山梨県中巨摩郡大蒲田村二日市場(現甲府市大里町)に三神医院を開業した三神三朗は、東八代郡石和町字広瀬(現笛吹市石和町広瀬区)の出身です。旧姓は、川手といい、川手五郎右衛門の次男として生まれています。現在同区内に川手姓の家は数軒ありますが、どの家が三神三朗の実家か確認出来ていません。地方病原因解明に大きく貢献した彼の功績を考えると彼の生い立ちを詳しく調べなければならいと強く感じています。

写真は笛吹市内を流れる笛吹川。周辺が三神が活躍した地

 三神三朗は、済生学舎(現在の日本医科大学)で学んでいます。同級生、野口英世とともに医師免許取得を目指しました。

 野口英世は医師開業試験に合格して医師となり、アメリカにわたります。黄熱病や梅毒の研究に従事し、その後アフリカの地で亡くなっています。

 一方の三神は、 済生学舎卒業後1987年(明治30)、前述した通り甲府市大里町に開院しています。ともに同じ済生学舎で同時期に学んだ二人ですが、交遊があったかどうか定かではありません。

 三神の人柄を表しているエピソードを次回紹介したいと思います。

 

 (注)前回まで三神三郎と表記しましたが、今回から三朗としました。文献によって表記がまちまちでしたが、研究者からのご指摘がありましたので今回から三朗と表記します。

 

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日本住血吸虫の発見ー三神三郎の貢献

 地方病教育推進研究会事務局です。(第65回)

 日本住血吸虫の発見は、明治37年(1904)とされています。それまで医師三神三郎は、自身の研究で新種と思われる虫卵を発見しています。その原虫は一体何のか。当時佐賀県広島県でも同様な虫卵が発見されていましたので、これらの地域は同一の寄生虫であると研究者の間では主張されていました。しかし、まだその原虫は未発見でした。

写真(出典−地方病とのたたかい山梨地方病撲滅協力会1977)

 ここで桂田富士郎の登場です。岡山医学専門学校(現岡山大学医学部)教授の桂田は、三神三郎家に滞在し、三神家の飼い猫である雌猫「姫」の解剖を行います。その様子は、小林照幸著『死の貝』に詳しく描かれています。

 明治37年4月6日から桂田は、三神家に5日間滞在しています。その間、多くの地方病患者を診ています。そして姫の解剖となります。三神の研究室の解剖から取り出された臓器は、一旦岡山の自身の研究室に持ち帰リました。そして再び7月25日に三神家を訪れます。今回も三神は解剖用の猫を提供しています。そして桂田は今回は臓器を持ち帰らず、三神の研究室ですべて解剖しました。その結果門脈から32匹の成虫が発見されたのです。

 また肝臓内を調べてみると、これまでの地方病患者の肝臓、糞便から見た同じ無数の虫卵があったのです。大発見でした。

 このとき「桂田と三神は、痛くなるほど握手を交わし」(『死の貝』から)、地方病の原因がここに定まったのです。

 8月初旬、桂田は住血吸虫の新種として、学名を「Schistosoma japonicum 」、和名を「日本住血吸虫」と命名しました。そして8月13日付明治政府発行の官報に掲載され、ドイツ語に翻訳されドイツにも報告されました。また、広島と佐賀、福岡の地方病も同じく日本住血吸虫症であることが突き止められました。

 

 三神三郎は医師として日々眼の前にいる地方病患者に対して治療をしつつ研究を続けていました。それは、地方病で苦しむ患者を一刻も早く助けたいとの熱い思いがあったからです。山梨県人として誇りです。

 

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地方病撲滅に尽くした人々ー三神三郎

 地方病教育推進研究会事務局です。(掲載64回目)

 テレビ放送のお陰で視聴者から色々な情報が得られました。その一つが、石和町内の側溝に「地方病対策溝渠プレート」があるという情報でした。早速先週末、見に行き写真におさめました。昭和46年度 8 延長296米 5型などと書かれています(写真)。周辺を確認しましたが、このプレートだけでした。この地でも地方病対策の事業が確かに行われた証拠を確認できたことは、大きな収穫でした。

 

さて日本住血吸虫症の山梨県独特の呼称である地方病です。表題にあるように地方病撲滅に貢献された市井の医師たちが多く山梨県内にいます。三神三郎もその一人です。(注ー文献によって三朗と表記)

 今回から数回に分けて、三神三郎について書きたいと思います。

 山梨県東八代郡石和町広瀬出身(現在の笛吹市石和町広瀬)。済生学舎(現日本医科大学)に学び医師免許を取得する。その後三神家の婿養子となり、1904年(明治30年)に中巨摩郡大鎌田村二日市場(現在の甲府市大里町)にて三神医院を開院する。

 診療と研究に取り組んでいた三神三郎は、桂田富士郎に協力し、日本住血吸虫を世界で初めて発見する。その後、治療薬スチブナールを我が国で初めて使用し、治療を始めている。第二次世界大戦終了後、三神医院で地方病の治療を受けた患者も多かった。

 現在医院の敷地内に記念碑が建てられている。次回、桂田富士郎との日本住血吸虫発見に至る経過を紹介したいと思います。

 

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