地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

杉山なかの主治医吉岡順作②

 地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第85号)

 ここのところの暑さはまさに地球が悲鳴を上げている感じがしてなりません。皆さんの地域ではいかがでしょうか。

 

  今回のブログは、ブログ第82号の続き、吉岡順作について掲載します。

 現在も吉岡姓を名乗る方々は、笛吹市春日居地区に8軒ほど住んでおられます。吉岡姓の校長先生も石和南小学校に在籍され、会議室にその写真が歴代校長と並んで掲示されています。地元の方の話によると恐らく吉岡順作の縁者だということです。

 

 写真は、かつての有病地を流れる笛吹川

 

 順作は、明治21年(1888)4月当時の石和村(現在の笛吹市石和町)に吉岡医院を開業し独立します。この地は、甲府盆地の要衝にあり、付近各村は水田地帯で地方病の有病地でした。順作の三女の長田ひさ次さんは、父の姿を次のように語っています。

 「父は貧乏人からは、絶対にお金をとりませんでした。それでいて薬は一番良いと言われるのをその人達にも差し上げていました。収入は診療所の窓口に入るお金だけ。往診代は一銭も家には入れなかったそうです。何に使ったかわかりません。いつもやりくりで母は大変だったようです。」

 また「父は衛生にはうるさい人でした。羽二十重の着物、紺の袴に白足袋、これが往診の姿でした。ところが年中アルコールで消毒するので、着物の色は変わってしまうほどでした。」

 順作の人柄が分かる証言です。

 彼は石和村を中心に診療活動をしましたが、その中に当時の清田村の杉山なかの家からの往診要請もありました。馬での往診でした。「なか」への診療が後世に語り継がれる「解剖願書」となるわけです。

                            出典:春日居村史

 

 吉岡順作について次回に続きます。

 

 地方病教育推進研究会

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