地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

杉山なかの主治医 吉岡順作③

 地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第86号)

 猛暑が続いていますが、読者の皆さまいかがお過ごしでしょうか。お盆休みを控えているところに東北地方を台風5号が直撃しています。心配ですが、無事通過することを祈っています。

 

 杉山なかの主治医吉岡順作について前号の続きです。

 地方病は、山梨県内では、釜無川笛吹川・荒川流域が有病地で、盆地の大半を占める18,000ヘクタールに及んでいました。その中で暮らしていた「杉山なか」は水腫張満と言われた本病に罹り順作に治療を受けていました。

 しかし治療に全力で当たりましたが、効果は思わしくなく腹部は水が溜まり容体は悪化の一途でした。順作は、死体を解剖することができればこの業病の解明すなわち病原や病態を究明し、治療法の開発に繋がることができるとの確信に至ったのです。

 

 「死体解剖御願」は、順作が代筆しました。曰く

 私儀泰平ナル御代ニ生存スルコト己ニ数十星霜ヲ経過スルモ素ヨリ無教育ナルヲ以テ未ダ曽テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼラルニ一朝病ノ為不帰ノ身トナランコトハ遺憾至極ト存候ーーーー」

 この後「なか」の切々たる思いが込められた文章が続きます。この文書は、順作が月日をかけて、「なか」の死体解剖の承諾を本人や夫の武七、家族親族たちを説得して文章を代筆しました。死亡何日か前に完成したと言われています。

 「なか」は明治30年6月5日、家族・親族・医師順作が見守る中、亡くなりました。亡くなった翌日には、東山梨・東八代両郡の医師達が集まり解剖のための会合を開きました。

 

 次回は、解剖当日の様子を紹介します。

 

 出典:春日居村史

 

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