地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

杉山なかの紀徳碑

地方病教育推進研究会事務局です。

前回のブログの続きです。

地方病患者杉山なかを語る上で吉岡順作を抜きには語れません。

杉山なかの主治医であった医師吉岡順作のふるさとは、山梨県春日居村(笛吹市春日居町)です。同村徳条地区出身だと思われますが、住民の婦人吉岡さんの話によると吉岡姓の住民は、この地区に13軒ほどあるそうです。順作の直系親族は、転居され今は同地区に住んでいないそうですが、遠い昔は我が家も順作の親戚であったかもしれないと話をしてくれました。吉岡順作については、別の機会に取り上げていきたいと考えています。

 

森下薫著「ある医学史の周辺」から杉山なかの紀徳碑についての箇所を掲載します。

筆者らは、春日居村を辞し、盛岩寺に車を走らせた。この地は、

西山梨郡清田村向(むこう)と称されたが現在は甲府市に併合されて向町となっている。今なお純然たる農村環境である。(事務局注ー現在の甲府市向町は、国道20号線通称甲府バイパスに面し飲食店が軒を並べる大変賑やかな地域に発展している)

寺は曹洞宗の一末寺で、古びた簡素な門を入ると、左側に本堂と庫裏とがあり、境内はかなり広いが囲いも塀もない。安産子観音霊場と銘うち、その周辺にひとかたまりとなっている向町の人達の檀那寺である。この境内でその昔、水腫病にかかってその命運を悟った杉山なかの特志解剖が行われたのであって、その奇特な志を後世に伝えるための紀徳碑が建てられてあり、また同女の墓もある。

碑は境内のほぼ中ほどにあって、高さ2メートばかりの不整形自然石の表面に同女の事績彫り刻まれている。なか女の解剖は明治30年で、碑の建立は明治45年となっている。上方に横書で「杉山仲女之碑」と大きくしるされている。

                       同書P234ー235からの引用

 

 

解剖から15年の歳月を経ての紀徳碑建立であった。その間なかの遺族は、早期の建立を強く要望したそうです。紀徳碑は甲府バイパスの開通に伴い場所も移されています。いずれにしても建立までには、予算的なこともあり様々なエピソードが残っています。

次回に続きます。

 

地方病教育推進研究会

事務局長