地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

杉山なかの主治医 吉岡順作⑤(最終回)

 地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第88号)

 8月も下旬となり、今夜は笛吹市の夏祭りの掉尾を飾る第60回石和温泉花火大会が笛吹市役所前笛吹川河川敷で開催されます。今年の花火大会は、市制施行20周年記念の意義を込め約10,000発の花火の打ち上げが予定されています。久しぶりに見学に行くので写真を撮り、Facebookに投稿したいと思っています。

 

 表題にあるように杉山なかの主治医吉岡順作について、前号に引き続き記載を続けます。

 死体献体は現代においても本人や家族にとってもなかなか受け入れることは難しいことです。いまから130年近く前に「杉山なか」は献体を申し出て実現しています。

 後年「なかの献体」を讃える紀徳碑が杉山家の菩提寺である盛岩寺の境内に建てられました。碑文は漢文で書かれています。別の機会に紹介したいと思っています。

 順作は碑の建立にも奔走します。そして明治45年(1912)の碑は完成しました。

  

  献体解剖後、順作は医師としての医療活動を続けながら病原体究明のために実験を行っています。

 「研究熱心で凝り性でしたから、川に住むいろんな動物、ホタルや巻貝などをガラスの容器に飼って、時々顕微鏡で覗いていました。離れでしたが、その研究室に行くと危ないと怒鳴られたものです。ご飯が済むとすぐに研究にとりかかりました。それが重なって倒れたものだと思います」

 これは、順作の三女ひさ次さんの言葉です。研究中途で重い胃潰瘍に罹り床に伏してしまいました。彼はどのような思いで病床で時を過ごしたのでしょうか。

 順作は、山梨県医師会長に就任します。また明治から昭和にかけて甲府市内を中心に  甲運小学校や琢美小学校などいくつかの学校で校医としても活動をしています。

        写真は晩年の吉岡順作

 

 順作は体育教育にも力を注ぎ、著書『躰育百話』は当時の文部省から高く評価されました。

 80歳の高齢となり、山梨にある土地建物を一切処分し、東京都杉並区の長男のもとへ転居します。そして昭和19年(1944)9月3日医療と地方病研究そして保健衛生に尽力した80年の生涯を終えました。

 

 吉岡順作は地方病と闘った人の一人です。彼の生き方から多くのことを学ぶことができます。

 

 本稿は『郷土史にかがやく人びと』(1997)『地方病とのたたかい』(2003)をなどを参考に編集しました。

 

 地方病教育推進研究会  

 事務局長