地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

地方病教育推進研究会から杉山なかについて説明をします。(前回ブログの続き)

 地方病教育推進研究会です。杉山なかについての説明を続けます。

 解剖願いは1898年(明治30)5月30日、山梨病院長の下平用彩にあてて出された。吉岡の手によるものだが「わたしは泰平の世に生きてきたが、君恩に報うことなく病気になった。しかもこの病気は原因不明で多くの人々を苦しめている地方病である。ぜひともわたしの体を解剖して病気の原因究明に役立たせてほしい」という内容である。

 なかは6月5日死亡し、翌6日午後2時同村の盛岩寺境内で下平用彩の執刀により解剖が行われた。57人の医師が立ち会っている。

 この解剖で寄生虫卵らしいものは無数に発見されたが、母虫は見つからなかった。しかし、この解剖によって研究の対象は狭まれ1903年(明治36)、桂田富士郎が「日本住血吸虫」を発見し、続いて宮入慶之助によってこの病気の中間宿主である宮入貝が突き止められた。

 さらに杉浦健造、三郎らによって地方病撲滅の研究へと進んでいく。

 

出典 江宮隆之著「山梨人物博物館」

p117

 

 過日行われた地方病教育推進研究会の設立総会には、杉山なかさんの縁者さんが参加されました。

「両親が亡くなってから家系を調べ始めましたが、自分のご先祖様にこんな勇気ある方がいたとは」との声をいただきました。

 

 興味のある方は、次の小説もご覧ください。

 遠藤文子著 「小説杉山なか」(昭和町伝承館杉浦醫院に置かれてあります)

 

 地方病教育推進研究会事務局長