地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

杉山なかの解剖

地方病教育推進研究会事務局です。

3月になり甲府盆地も春の訪れを感じます。写真は筆者の庭に咲いたキンレンカです。

今回のブログは、杉山なかの解剖当日の様子を小林照幸著 『死の貝』から紹介します。(2月23日ブログ61号の続き)

肝臓、胆嚢、胆管、十二指腸の組織が切り取られ、顕微鏡で病変が調べられる。まわりの医師も見る。これらの内部におびただしい寄生虫卵が見えた。医師たちは各臓器を徹底的に調べたが、母虫は見つからず、なかの遺言には添えなかった。解剖は午後6時半に終わる。何の寄生虫か特定できないが、地方病が「寄生虫病」であることはこれでほぼ明らかとなった。なかの臓器は、酒精(エチル・アルコール)につけられて県立病院に保存される。当時、ホルマリンは未だない。

                            同書P39から引用

 

この解剖の模様を森下薫著『ある医学史の周辺』には、次のように記載している。

助医村上庄太の所見によると

「解剖所見は主として肝臓である。  ‐略‐  母虫を発見しないので確かなことはいえないが、本病(注ー地方病)は恐らく寄生虫に帰すべきものと思う」とある。

この剖検で一種の虫卵を見出し、何種のものか断定はしていないが本病との原因関係を推定したことの意義は大きい。後年日本住血吸虫の卵と決定されたものであったからだ。この時の肝臓の一部はその後桂田富士郎博士に依っても検査されている。

                       同書P241−242から引用

 

勿論ここで登場する桂田富士郎は、日本住血吸虫を世界で初めて発見した博士である。いずれにしても、杉山なかの解剖は地方病(日本住血吸虫症)の原因解明に大きく貢献したことは確かな歴史的事実である。

桂田が本寄生虫を発見した経過もこのブログで紹介したいと思います。

 

地方病教育推進研究会

事務局長

 

 

 

 

今、伝え残したいこと 〜地方病の歴史を未来へ〜

地方病教育推進研究会事務局です。

今日も北風が吹いている甲府盆地です。皆さんの地域はいかがでしょうか。写真は笛吹市から見た南アルプスの山並です。

 

表題は、2月17日から25日にかけて放送された番組名です。NNS特別番組として放送されたものです。甲府市のケーブルテレビ局の放送でしたが、多くの視聴者があり、局に「もっと放送してほしい」という問い合わせがあり、急遽来月にも放送することになりました。(日時未定)地方病や本研究会の活動をもっと知ってほしいとの願いがかない、感謝に堪えません。

 

今回のブログは、杉山なか解剖当日の模様を前回に引き続き紹介する予定でしたが、次回に回しテレビ放送を見た視聴者の感想を掲載します。

まず番組の局からの紹介文です。

かつて甲府盆地で猛威を振るった『日本住血吸虫病(地方病)』の流行終息宣言が出されてから四半世紀。近代山梨の歴史の一側面である“地方病との闘い”の記憶は罹患経験のある生存者が少なくなることで風化の一途を辿っている。そんな中、2023年5月に地方病の歴史を教育に生かしていこうと「地方病教育推進研究会」が発足した。

中心は事務局長で元小学校教員のY・Eさん(注ー筆者のこと)。番組ではEさんの活動を中心に先人たちが克服した疫禍の歴史を未来に伝えることの意義を見つめる。

 

視聴者から筆者に届いた声やメールを一部紹介します。

 

今夜番組を観ました。今までこのチャンネルを観たことがなかったのですが、とても良い内容で驚きました。

昭和町の親戚が地方病で亡くなっており、私にとって他人事ではなかったから感慨深い内容でした。ありがとうございました。(60代男性)

 

テレビ、拝見しました。私が、幼稚園、小学校低学年の頃、敷島の田んぼに近づくと叔父が怒ることが何回もありました。なんで怒るのか、当時は知らずにいましたが、叔父も地方病になったとあとで分かりました。敷島も当時は、たくさんあったようです。貴重なテレビをありがとうございました。(60代男性)

 

テレビ見させていただきました。地方病を後世に残す活動は大変だと思いますが、身体に留意しながら頑張ってください。(60代女性)

 

地道な研究活動又教育活動に最敬礼致します。これからも地域貢献の模範として活躍をお祈り致します。(60代男子)

 

テレビ見ました。地方病との取り組み、熱い思いが画面から伝わってきました。第2回地方病研究会、全国から同じ思いの研究者が集まりました。事務局としても多くの苦労があったことでしょう。お疲れさまでした。ますますの活躍期待しています。(70代男性)

 

まだまだ多くの方の声がありました。また紹介したいと考えています。50〜70代と中高年の方が多かったですが、孫と一緒に見ましたとの声もいただきました。改めて様々な経験の方の情報が入手でき放送に感謝です。

 

今回のブログ投稿も62回目となりました。

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地方教育推進研究会

事務局長 

 

 

 

 

杉山なかの解剖をめぐって

地方病教育推進研究会事務局です。

杉山なかの献体解剖のお陰で地方病の原因究明が大きく前進しました。それは歴史的事実です。紀徳碑建立もその表れです。

 

今回は、解剖当日の模様を小林照幸著『死の貝』から引用します。

 

 解剖は6月6日に行われることになったが、医師のあいだで「山梨県初の解剖例」の噂が広まり、見学申し出が30人余りも殺到した。県立病院の手術室ではとても入りきれず、杉山家も見学を申し出たこともあり、盛岩寺の境内ににわかの解剖台が設置された。盛岩寺には、5日の夜から医師が人力車を連ねて集まり、県立病院からは顕微鏡など道具が運ばれる。晴天に恵まれた翌朝、医師の数は40人を超えた。これは県内の医師の8割強であった。

 ただならぬ出来事に村人は驚き、住職に聞くと「解剖」とのこと。怖いもの見たさの好奇心が村人の心をあおり、寺の庭を埋め、木や塀、さらには寺の屋根に登り、解剖を見守る騒ぎとなった。

 解剖の執刀は約束通り、県立病院長の下平洋彩と村上庄太という若い医師の二人によって午後2時より行われた。日没は午後7時、それまでに終わらせねばならない。二人を取り囲んで吉岡ら数人の医師が凝視し、状況によっては助手を務めた。騒いでいた見学者も、腹が開かれ、赤くくすんだ肝臓が見えると途端に静まり返った。

次回に続く

                            『死の貝』P38‐39

 

話題は変わりますが、前回のブログで紹介しましたテレビ放送ですが、多くの人が視聴してくださいました。何人かの方から電話もいただきました。励ましの言葉にこれからも地道に研究と研究会の活動を進めなくてはと決意を新たにしました。写真は、友人がテレビ画面を撮影して送ってくれたものです。

 

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地方病教育推進研究会

事務局長

 

 

杉山なかの解剖願書

地方病教育推進研究会事務局です。

関東地方は、春一番が吹き甲府盆地でも昨夜(2月15日)は、強風が吹き荒れました。三寒四温の日々が続きますが本格的な春が待遠しいですね。

写真は、笛吹川から見た南アルプスの山並みです。3000メートル級の山はまだまだ冬です。

 

今回のブログは、表題の通りなかの解剖願書について掲載します。色々な文献に出ていますが、今回は、小林照幸著『死の貝』から一部を引用します。実物は、横浜市立大学医学部寄生虫学教室の菊池滋先生のもとにあります。(森下薫著『ある医学史の周辺』P240)

 

死体解剖御願

西山梨郡清田村

戸主 杉山源吉養母

杉山なか 当五拾四歳

 私儀泰平ナル御代二生存スルコト既二数十星霜ヲ経過スルモ無教育ナルヲ以テ末ダ會テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼザル二一朝病ノ為不帰ノ身トナラシメンコトハ遺憾至極ト存候然ルニ不幸ニモ昨二十九年六月頃ヨリ疾病二罹リ悩ムコト甚ダシ、  〜省略〜

死后ㇵ是非共貴院二於テ解剖被成下充分ノ病原発見セラレ以后該地方病二罹リ悩ム処ノ数多ノ諸氏ヲ助ケ、医学上永遠二妾ノ寸志ヲ遺保セラレンコトヲ懇願至候。依ッテ本日ヲ以ッテ戸主并親属立合連署ノ上御願申上候也。

                       明治三十年五月三十日

                       右戸主 杉山  源吉

                       右 夫 杉山  武七

                       右本人 杉山  なか

                       右親属 向山  太平

                        〃  戸沢 近太郎

 

 

届け出た翌日から翌日からなかは昏睡状態になり、死体解剖御願書が遺言となる。なかは6日後の6月5日に死亡した。

                   小林照幸著『死の貝』P36からの引用

 

山梨県初の解剖例の噂が広まり見学の申込みが殺到したそうです。その様子を次回掲載します。

 

お知らせ

NNS甲府CATVで明日からNNS特別番組 「今、伝え残したいこと 〜地方病の歴史を未来へ〜」が放送されます。

山梨県内での放送になりますが、本研究会の活動を紹介する番組となっています。興味のある方は、放送局もしくは事務局までお問い合わせ下さい。

放送日時 2月17日〜25日  13:00〜  19:00〜

20日19:00〜 24日13:00〜は休止

 

問合せ先 NNS日本ネットワークサービス

TEL 055−251−7113

 

地方病教育推進研究会

事務局長

 

杉山なかを調べると

地方病教育推進研究会事務局です。

今週の月曜日は、甲府盆地でも雪が降り11センチの降雪量を記録しました。(写真)

水分を多く含んだ雪の除雪には、腰を痛めている筆者に取って重労働でした。しかし雪景色の美しさも感じました。皆さんのお住いの地域では如何だったでしょうか。

 

さて前回のブログでは、杉山なかの紀徳碑について掲載しましたが、なかの地方病制圧に関わる貢献は、色々な文献でも取り扱っています。

「明治・大正・昭和の郷土史 山梨県」(1982年昌平社出版)P52には、『地方病撲滅作戦』の中で次のように紹介されています。

山梨県の地方病、日本住血吸虫病の患者で、死後みずからの身体を解剖することを承諾し、その結果腸壁・肝臓に多数の虫卵が発見され、地方病の病原をつきとめる端緒をつくった杉山なかも、忘れてはならない恩人である。

 

なかはどんな女性であったのでしょうか。

なかの家について「ある医学史の周辺」では、次のように述べています。

杉山なかは杉山家の家付の娘で向部落に生まれ育ち、長じて同部落内の戸沢家から武七を婿に迎えて家を継いだ。杉山家には別の本家があって、当時の戸主は大右衛門、現在の戸主は金吾さん(筆者注ー現在は、代が変わっている)で、代々同部落内に住居している。なかの家はその分家として受け継がれてきた。同女の生年は死亡時の年齢から逆算して一応知ることができる筈であるが、月日は詳かに出来なかった。中々のしっかり者であったらしく、夫武七を助けて家業の農に励んだ。                         同書P236からの引用

 

なかも不幸にして地方病にかかるのだが、解剖に至るまでの様子を「解剖願書」を通して次回ブログで紹介します。

 

筆者も子どもたちへの授業で杉山なかを必ず取り上げています。

 

地方病教育推進研究会

事務局長

杉山なかの紀徳碑

地方病教育推進研究会事務局です。

前回のブログの続きです。

地方病患者杉山なかを語る上で吉岡順作を抜きには語れません。

杉山なかの主治医であった医師吉岡順作のふるさとは、山梨県春日居村(笛吹市春日居町)です。同村徳条地区出身だと思われますが、住民の婦人吉岡さんの話によると吉岡姓の住民は、この地区に13軒ほどあるそうです。順作の直系親族は、転居され今は同地区に住んでいないそうですが、遠い昔は我が家も順作の親戚であったかもしれないと話をしてくれました。吉岡順作については、別の機会に取り上げていきたいと考えています。

 

森下薫著「ある医学史の周辺」から杉山なかの紀徳碑についての箇所を掲載します。

筆者らは、春日居村を辞し、盛岩寺に車を走らせた。この地は、

西山梨郡清田村向(むこう)と称されたが現在は甲府市に併合されて向町となっている。今なお純然たる農村環境である。(事務局注ー現在の甲府市向町は、国道20号線通称甲府バイパスに面し飲食店が軒を並べる大変賑やかな地域に発展している)

寺は曹洞宗の一末寺で、古びた簡素な門を入ると、左側に本堂と庫裏とがあり、境内はかなり広いが囲いも塀もない。安産子観音霊場と銘うち、その周辺にひとかたまりとなっている向町の人達の檀那寺である。この境内でその昔、水腫病にかかってその命運を悟った杉山なかの特志解剖が行われたのであって、その奇特な志を後世に伝えるための紀徳碑が建てられてあり、また同女の墓もある。

碑は境内のほぼ中ほどにあって、高さ2メートばかりの不整形自然石の表面に同女の事績彫り刻まれている。なか女の解剖は明治30年で、碑の建立は明治45年となっている。上方に横書で「杉山仲女之碑」と大きくしるされている。

                       同書P234ー235からの引用

 

 

解剖から15年の歳月を経ての紀徳碑建立であった。その間なかの遺族は、早期の建立を強く要望したそうです。紀徳碑は甲府バイパスの開通に伴い場所も移されています。いずれにしても建立までには、予算的なこともあり様々なエピソードが残っています。

次回に続きます。

 

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杉山なかの周辺

地方病教育推進研究会事務局です。

今回のブログも杉山なかの献体を巡る話題を森下薫「ある医学史の周辺から」から掲載します。春日居村は、杉山なかの主治医であり献体を勧めた医師吉岡順作ゆかりの村です。

 

古くから本病(地方病)が流行して患者があとを絶たず、人達は恐怖と悲嘆との生活を送っていた同村であったが、ついにそれに堪えかねてその筋に訴願し、病気の原因についての取り調べと対策の指示を乞うに至ったのである。明治14年のことで、8月27日付けで春日居村戸長長田中武及び衛生委員飯島邦寧両名の名で郡役所を経てときの県令藤村紫朗にあてて差し出された願書であった。

願書の中で、人達の苦悩をみながら何ら打つ手もなく、見過ごして来なけれならなかった苦衷を切々に訴えている。

だが、この願書を受け取った県の回答は甚だ頼りないもので、水腫脹満などという名だけではどんなものかよくわからないから、患者を診察した医師にもっと詳細に病状を書かせて差し出せというものであった。当時すでに甲府盆地の各地に蔓延しており、水腫脹満という名で広く呼ばれていた筈である本病について、その原因はともかく、その存在も、その名も知らなかったのではないかといぶかせるような回答である。

その後明治19年2月20日付で2度目の願書が出された。今回は、患者名と腹水病とし、病状の略記が添えてあった。県は3月15日、御用掛大橋辰、属原道貞を派遣して調査せしめたが何らの結論も得られなかった。両名の調査したのは主として生活環境と飲食物についてであった。

                             同書P232から引用

 

県がなかなか真剣に対応しない中、軍医石井良斎の登場で一気に事態が動きます。杉山なかの献体までに至る経過を同書は、詳しく書いています。次回も引き続きなかの周辺に迫ります。

写真(筆者撮影)は、春日居村の小松地区(現在の山梨県笛吹市春日居町小松地区)です。この地区には、近年大きなマンションや病院が建ち大きく発展しています。

 

地方病教育推進研究会

事務局長