地方病教育推進研究会ブログ

山梨県地方病の制圧までの歴史

レイテ戦記と地方病 その3

地方病教育推進研究会事務局です。

前回のブログで大岡昇平氏の「レイテ戦記」と林正高先生の関係を中央公論1996年3月号で触れました。今回は、その続きです。「地方病に挑む会」発足の経過も明らかにされています。

 

井伏鱒二氏と親しい甲府市の病院長・古守豊市先生を通じて、そのこと(レイテ戦記に日本住血吸虫病が触れられていないこと)を大岡氏に伝えていただいた。そうした経緯があって大岡氏は結局『中央公論』1988年1月号に「レイテ戦記・補遺」として、フィリピンの戦場で日本兵の中に日虫症の症状を示した者がいたことに触れられた。

(中略)

私は1986年にODAプロジェクトが終了したあとの2年間は、フィリピンの医療仲間と、個人の立場で同じ内容の仕事を続けていた。つまり医薬品や医療器具を個人的に援助しつつ、従来の患者や新患の治療を行っていたのである。

1987年10月、レイテ島に出かける私にNHK甲府放送局チーフアナウンサー末利光氏が同行取材を求めた。氏は甲府地方の日虫症に強い関心を持ち、それまでも日虫症の特集を放映していたが、猛威を振るうフィリピンの日虫症を実見し、私の活動を取材したいという。

(中略)

末氏から、私がしている仕事は個人のレベルで行うことではなく、長期にわたって継続することに意味がある。全国的規模で募金活動を展開して特効薬を購入し、患者の命を救うボランティア活動をすべきだと、強い意見が出された。多忙な診療行為に従事する身で大きなためらいも感じたが、仲間に相談したところ大きな支援を受けたため、その12月に「地方病に挑む会」を発足させた。

大岡昇平氏が会の発起人の一人となり『レイテ戦記・補遺』の原稿料全額を会に託して募金活動第1号となられたことが全国紙に報じられ、活動は、順調になスタートを切った。

                    中央公論1996年3月号 P222からの引用

 

今年5月3日の地元紙に地方病教育推進研究会設立総会に向けての記事が掲載されました。その折末先生から電話をいただき、林先生とフィリピンに行ったことを話していただきました。お声からバイタリティあふれる情熱を感じたことを今でもはっきりと覚えています。

 

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